1、龍野


     龍野を貫流する揖保川

 龍野市の中心、城跡のある鶏籠山から東へ点々と山をたどって行くと風景はしだいに昔話めいてきて、赤松氏の落城の伝説が語りつがれ、今も落ち武者の石塔が月夜に白く浮き上がる東山の麓に、昔ながらの村が現れる。そこに彼の祖先伝来の家がある。彼の家の嫡男はかつて代々半左衛門を襲名したが、昭和に生まれた彼はもう半左衛門ではなかった。山でさえ雲に届かない在所に雲を突くほどの大男に生まれた彼は、若いころ相撲部屋から勧誘されたという。彼は家系の中で初めてサラリーマンになったが、この大地がよく似合う男は早々に百姓に帰り、風に吹かれて生きた。もう牛も鶏もいない山辺の村で彼だけが自然に釣り合っていた。自然の最後の砦のようなその頑強な体をガンが襲った。発見された時は手の施しようがなかった。最期まで弱音を吐かなかったが、容態が急変した日、息が詰まった。血のつながる者たちがいたたまれなくて大きな体のあちこちを撫でた。彼は気持ちよさそうにされるがままにしていた。

 彼の通夜の夜、私は親族の末席に連なって弔問の挨拶を受けた。こんな田舎のどこにこんなに人がいたのか、私は地の底から湧いて出たかと思われる弔問客の行列にあきれていた。だが彼が残した大きな空白をもう人々が埋めることはできなかった。その夜、私は伝説の巨族ダイダラボッチが真闇の山をひと跨ぎして立ち去るのを見た。こうして一つの故郷が消滅した。

 2、新居浜             
 
  新居浜を貫通して流れる国領川

 四国山脈から発して新居浜を貫通して流れる川がある。台風で増水する度に必ず水死人が出るので「人取り川」の異名があった。増水すると新しい亡霊は「来いよー、来いよー」とおらび続け、次の生贄を取るまで水が引かないといわれた。少年は嵐の日に川に近づくことを固く禁じられていたが、ごうごうと逆巻く濁流を見に行かずにはおられなかった。

 ある夏の日、少年は近所のA兄弟と河口の海へ行った。真夏の海は群青に輝き、彼方に一艘の船が浮かんでいた。潮の引いていた遠浅を歩いて近寄って行くと、船は祭の山車のように華やいでいた。デッキからダイビングする船員たちは鮮やかな放物線を描いて水中に没した。いつしか船が去ると三人は沖の浅瀬に取り残されていた。急いで帰ろうとすると、波が胸元まで打ち寄せた。近くに人影はなく、岸辺はあまりに遠かった。二歳年長のA兄は泳げたが、弟と少年は泳げなかった。そうしているうちにも波は濁流のようにごうごうと満ちわたってきて、少年の胸元を越えた。突然兄は弟を抱いて泳ぎ出した。少年は観念した。それでも彼は最後のあがきに自分を賭けた。必死の犬掻きで兄弟の後を追った。体がふわりと浮き、わずかに頭が水面に出た。その後の数かきで水が頭を越え、彼は沈んだ。その時、誰かの大きな手が彼を抱き取った。

 あれは誰であったのかと少年は考え続けた。海には一つの墓標が残り、彼はもう一人の自分を生きているような気がした。こうして少年は人生の扉を一つ押し開いたのだった。   


 

3,志度


 在りし日の「岡野の松」−牧野和春著「巨樹・名木巡り(中国・四国)」(牧野出版)より

 志度は四国八十八か所の第八十六番目の札所、志度寺の門前町である。志度寺から西へ一キロの小さな寺に「日本一の松」があるという。「日本一」とはまた面妖な、どれ拝見と無人の庭を覗いて息を飲んだ。何やら地にうずくまる巨大なものの飛翔寸前の姿かと見えた。おもむろに一巡すると、そのものは幹を八方に伸ばしてひたひたと地に満ちあふれていた。もう一巡して松はすでに全葉天を指したまま褐色に枯死しているのを知った。私はその緑の輝きに間に合わなかったのを取り返しのつかないことと激しく悔やんだ。

 だが、私が志度を訪れるのはこの地の老人病院に人を見舞うためである。彼女が自分の名を明記していた頃は、見舞うだけで精一杯で、疲れはてて帰路についた。彼女が自分の名を失った後の、ぽっかり空いた余白にはじめて志度が現れ、巨木が現れたのだ。帰路、私は枯れてなお凛とした風姿を生きる樹木の生涯について思いつづけた。

 その木が切り倒され、その人がこの世を去ってからもう何年か経つ。その木が「岡野の松」と呼ばれた銘木であり、その木のクローンが育っていることを今では知っている。「木は人ではないし、クローンはその木ではない」というその人の声が聞こえてくる。

地誌異聞
4、栗林公園


     栗林公園

 

 二十歳の春、帰省の途中に栗林公園に立ち寄った。眼前の庭園から最初の記憶が立ち上る。橋は欄干をつけたまま緩やかな曲線を描いて隆起する。欄干につかまったまま見下ろすと、巨大な錦鯉が群がり集まってくる。餌を投げると鯉たちの華麗な乱舞、幾重もの波紋がぶつかり七色に渦巻く。池が大湖の様相を呈しはじめる。

 栗林公園は二つある。そして私は二人いた。
 時よ 戻れ。
 橋よ 隆起せよ。
 鯉よ 高く跳ねよ。
 あの幼時のはなやぐ追憶のままに。

 無闇に長い階段があった。出店やら駕篭やら参詣人やらのにぎわいが果てしなく続いていた。軍服を着た若者が少女の手を引いて階段を駆け上がっていく。金毘羅の階段で私を追い抜いていく二人の後姿がくっきりと浮かび上がる。少女は姉で、軍服は従兄弟であった。

 当時四国に本籍を持つ者の入営はすべて善通寺師団で行われた。その日、私たちは出征する樺太の従兄弟を営門まで見送った。私の最初の、彼の最後の観光であった。彼は二度と帰ってこなかった。昭和十年代中頃のことである。

6、御影


     前列左から2人目が筆者
     前列右端がオンケル

 私は大学の最初の一年半を姫路で過ごした。旧制姫路高校の学生寮だった白陵寮5寮4室に入っていくと「おみゃあ、どこから来たんなぁ」とおっさん風の先輩が聞くので、「新居浜からきました」というとしばらく私を「新居浜氏」と呼んで子分のごとく連れ歩いた。旧制三高で結核を病み、7年遅れで新制大学にやってきた同級生だった。旧制高校の伝統の残る寮で彼は正真正銘の旧制高校生だった。私たちは彼に「オンケル」(アンクル)の称号を奉って敬愛した。
 一年半して私たちは神戸にやってきた。行き所のないもののためにオンケルは御影の浜辺の奇妙な家を捜し出して「学生寮」の看板をあげた。元酒造家の家主が建てた窓の少ない酒蔵のような家だった。
 昭和三十年、十人あまりの若者の共同生活が始まった。賄いにおばさんを雇い、いつも笑いの絶えない食卓を囲んだ。私たちは民主的で、おばさんに日曜は休んでもらうため交代で炊事当番をした。一日の食費、米代五十円と副食代五十円で何とか食える食事を作った。朝から「イワシのとれどれー」「なっと、なっとー」「あさり、しじみよー」と物売りの声が響く下町だった。
 いつも私たちの生活の中心にオンケルがいた。彼は誰よりも勉学に励んだ。倦まずたゆまず机の前に座り、勉強の合間にドイツ語の詩を朗々と暗唱した。牢名主のように薄暗い座敷に居据わっていても、大地を行く単独者の風貌をしていた。時々「メッチェンくわえて街に行く」と出かけていったが、彼の女性談義は話術の巧みさと話題の豊富さでいつも人気の的だった。
 あれから五十年、わが青春のひと時ははるか彼方に去り、漁船がつながれていた浜辺は埋め立てられ、寮は跡形もなく、オンケルも存命しない。